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01/31/2005
肯定的評価
今日(2005.1.31)の毎日新聞、『NHK、改革への提言』。重村一(スカパー社長)の「『民の常識』入れ自浄を」、が面白かった。
・・・NHKには、「視聴率に左右されない宣言」をしてほしい。広告収入で運営される民法は、スポンサーの意向を受け、若者中心に番組を作らざるをえない。日本独自の放送文化というものを考えた時、NHKと民放のバランスと役割分担は非常に重要だ。NHKは民放と違うものさしで評価されるべきだ。かつての「土曜ドラマ」や「ドラマ人間模様」のような深みのある番組や企業不祥事を掘り下げる特集、1クール13本という放送枠などに縛られない多様な編成がNHKにはできる。
この意見には非常に共感する。NHKは良い番組を作るのだ。僕が苛々しているのは、それが妨害されることである。
ついでだが、重村さんは、「受信料を払わない権利」を認めて、緊急情報以外にはスクランブルをかけ、受信料を払う人だけが見る方式を導入してはどうか、と提案してもいる。それってスカパーやん!と思わないでもないのだが、ハイクオリティの有料放送というのはまだ実現していないと思うので、提案としては面白いかもしれない。実現は難しいとは思うけれども。
11:41 PM [映画・テレビ, NHK番組改編問題関連] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
(またも)税金を払いそこなう
妹が休みになったので、今日は家中の耐震工事の日。電動ドライバーを手に、家中のタンスをL字金具と耐震ベルトで固定してまわる。ものをどけたり、タンスを柱の前に移動させたり、また載せなおしたりで案外疲れた。
と、いうところでふと時計を見るともう3時。銀行が閉まってる。また市民税を払いそこねた。
実はこの市民税、本当は11月1日納入のやつで、要するに今は催促されている状態だ。一月中に、と再送付された支払い用紙に書いてあるのに、31日はもうとっぷり暮れた(←嘘。まだ日は高い。でも銀行は閉まってるんだもん)。
うーん。しかも、1月末が締め切りの別の市民税もあって、そっちも払ってない。むむむだ。ここへ来て、ついに御上にタテツク羽目になってしまった。
むーん。しかしこれ、何とかならないですかね。pay-easyにしてくれたら、すぐに払えて便利なのだが。ていうか、しろよそれくらい。請求書送りつけてくるんだったらさ。
03:33 PM [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
ついで:ガンバキャンプ一日め
オフィシャルの写真見ての感想。
家長おっさんくさい!
10:20 AM [ガンバ大阪] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
イラク選挙で高投票率
戒厳令同然の厳戒態勢、相次ぐ自爆テロにかかわらず、イラク総選挙の投票率は60-70%を記録。
日本の国会選挙よりちょっと高い程度、それも暫定政府発表の数字じゃん、という気もするが、現地から伝えているアメリカABCのニュースなどを見ると、かなり盛り上がったらしい。フランス2も選挙の成功を報じているから、間違いはなさそうだ。
多少怪しげでも、自分たちもプロセスに加わったほうが良い、という判断が働いたということなのだろう。武装勢力だって米軍に負けないくらい胡散臭いし、選挙に勝った所が力を持つのは間違いないもの。
というわけで、次の関心は「どこが勝つのか」だ。政策も候補者もわからない中で投票が行われているという話なので、どうなんだろう。僕は、シーア派政党の一つとクルド人政党が多数を占めるのではないかと思っているのだが。
10:10 AM [ニュース] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
キャンプ
オフィシャルによれば、全員予定通り無事グアムに着き、キャンプに入ったもよう。
第1日目(1月30日) 天候:大阪=かなり寒い!/グアム=28度
にちょっとくすぐられる。すごくではない。ちょっとだけ。
12:14 AM [ガンバ大阪] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
01/29/2005
スタイル問題
中田浩二(だけでなく山瀬、村井なんかも)の移籍がきっかけで、サポ(ファン含む)の立ち位置みたいなものが改めてクローズアップされていると思う。aoqlo系でもタカギ(ユ)さんが記事を書かれている。
大雑把、かつ極端に言って、サッカーを一所懸命に見る理由としては二つのものがあると思う。
ひとつは「良いサッカーを見ること」、もうひとつは「勝ち負けに一喜一憂すること」。
第一の感覚は、言ってみれば「芸術としてのサッカー」だ。
サッカーを芸術、つまり人類の新しい可能性を開拓するものとしてみる。他の芸術と違うのは、絵の具や楽器ではなく、身体を使うことだ。
この感覚を持つ人にとって、大事なのは素晴らしいサッカーが見られること。レアル・マドリッドが世界中の選手を買い集めることも、ワールドカップの決勝がいつも「ブラジル対どこか」であるのも問題じゃない。観戦はメインスタンドがバックスタンドに決めていて、必ずメモを取る。時にはビデオも回すし、中継やインタビューも必ずフォロー。マガジン、ダイジェストはもちろん、ナンバーにスポルティーバも欠かさない。
日本選手の海外移籍にも賛成だし、リーガもプレミアも見まくってる(最近は、ロナウジーニョとチェルシーがちょっと好き)。あるいは、ひとりの「アーティスト」をとことん追いかけることもある。
第二の感覚の人が追求するのは、「生の充実としてのサッカー」だろう。平凡に生きるのはつまらない。だからといって人生にはそう波乱はないし、あっても困る。だから、勝負の喜怒哀楽を極大化しようとする。
一つのチームにとことんまで打ち込み、ためらいは全部捨てる。アウェイだろうがホームだろうが試合には全部行き、もちろんゴール裏で声を出す。金に糸目を付けずにグッズを集めるし、時間をつぎ込んでバナーも作る。勝ったときには喜びを爆発させるし、負けたときには人生の終わりが来たくらいに落ち込む。
代表のエースだろうが、チャンピオンズ・リーグの得点王だろうが、サポートしているチームにいない選手には関心がない。チームの選手の海外進出にはもちろん反対。特に主力選手の移籍はどんな手段を使ってでも阻止する。
で、「あなたはどっち派?」と聞いたってあまり意味はないだろう。「両方」というのが普通なのではないかと思う。僕の中にも、両方の感覚がある。ユーロを見れば「すごいなあ」と思うし、ガンバの勝利にまさる喜びはない。観戦はバックスタンドだけど、レプリカ(シジクレイにするかどうか検討中)とフラッグは持っている。レポートは冷静に書くけど、負けると2、3日は不機嫌だ。どっちの感覚が優れているわけでも、どちらかが間違っているわけでもないと思う。というより、両方ないと寂しい。
勝って冷静負けて平然ではつまらない。でも、結果が全てならルーレットと同じだ(それではサッカーを見る甲斐がない)。どんな人の中にも二つのスタンスが(程度の差はあっても)混じり合っているし、そうあるべきだろう。
このあたりの機微はスタジアムでも同じことだと思う。ゴール裏のサポがいないのもつまらないし、メインスタンドのギャルもバックスタンドもマニアも風物詩だ。そこに調和や統一は必要ないと思う。
もちろん、同じ楽しみ方をしている仲間がいるのは素敵なことだ。そして、時には多くの人が集まっていることは役に立つ。とはいっても、仲間を無理に増やせばいいというものでもないだろう。逆に、孤立していることが間違っているということもない。
大切なのは、自他の立場を尊重することだと、僕は思う。正しい見方も、正しくない見方もない。ただ、サッカーがそこにあるだけだ。
10:59 AM [ガンバ大阪] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
01/28/2005
メディアの独立性【NHK番組改変問題】
今週号の『ニューズウィーク』(2005.2.2)が「世界が笑うNHKの『常識』」という記事を載せている。なかなかいい。
NHK幹部は、安倍との面談そのものは通常業務の範囲内だと繰り返す。だがここで、世界の多くの報道機関で「非常識」とされる政治家との癒着を、通常業務だと主張するNHKののんきな「常識」が露見してしまった。
「自尊心のある報道機関が、事前に報道内容を知らせると言う発想は、アメリカのほとんどのメディアではありえない」と、ワシントン・ポスト紙のメディア評論家、ハワード・カーツは言う。議員が報道内容を事前に教えてくれてと頼んでも、笑われるだけだ。(中略)アメリカのナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)とPBS(公共テレビ放送網)も、政府の補助金を得ている(収入の全てではない)。保守派の議員たちは、自分たちに不都合な報道に腹を立て、定期的に予算の削減を要求する。「だが、報道機関側は、自らの独立性を誇りにしている」と、ワシントン・ポストのカーツは言う。「政府の圧力で、番組が改編されたという話は前代未聞だ」
で、そのPBSのニュースをNHK-BSでやっているので(*1)みていたら、アメリカでも政府がコラムニストやコメンテーターに金を払って、政策を支持する報道をしてもらっていたというニュースが。日本での報道はまだ三面扱いだけど、かなり問題になっているようだ。
詳細はワシントン・ポストの記事を見ていただくとして(あ、これHoward Kurtzだ)、興味深いのは政府が非を認めていること。
ブッシュ大統領は、 "there needs to be a nice, independent relationship between the White House and the press, the administration and the press."と述べている。
政府とプレスは、良好で独立した関係を持つ必要があるんですぜ>ウチの政府のみなさん。
(*1)こういうことがあるので受信料を不払いできないのだ。締め付けの緩い(推定)BSやハイビジョンでは、本当に良い仕事がされている。末端の人がんがれ!
03:40 PM [ニュース, NHK番組改編問題関連] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
01/27/2005
キャプテン、シジクレイ!
新年度のキャプテンはシジクレイ。
妥当な選択かと思う。もともと彼は先頭に立ったときに力が出てくるタイプだし、幸いキャプテンはCBとちがってポジションじゃないから(w、プランにも柔軟性を持たせられる。
写真にしたときに迫力もあるしね。
ああ、やっぱり楽しみだなあ。
06:37 PM [ガンバ大阪] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
郵便局
簡易書留を出しに郵便局に行く。窓口に長蛇の列ができていた。
大学の出願期限が近いのもあると思うのだけど、郵便の受付方法にも問題があると思う。何とかならないのだろうか。
見ていると(あんまり暇なので観察していたのだ)、手書の帳票とバーコードシール、それに端末で入力したデータの三つで管理するシステムになっているみたいなのだが、明らかに冗長だとおもう。とくに帳票と入力データが並存するところが殺人的に無駄だ。
- 住所氏名をユーザーに入力させ、
- 料金と引き換えに控えと宛名ラベルを発行して、
- 貼付されたものを窓口で受付ける
という方式にしてはなぜいけないのだろう。そういえば、東京では見たような気もするぞ。
01:30 PM [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
ウチの子たち
ていうか、今日始動ですな。
10:09 AM [ガンバ大阪] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
中田浩二移籍
おおむね予想通りになったわけだが、うーん、頑張ったねえという感じ。非経済的・非スポーツ的な理由でいけない可能性も高いと思っていたので。
ところで、会長。外国人枠を考えましょうよ。プロテクトとか、複数年契約とか、後ろ向きの対策じゃなくてさあ。
10:03 AM [football, スポーツ] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
01/26/2005
「右傾化」と「生活者」【大幅改稿版】
Dead Letterさんのこの記事の最後に、以下のような文章がある。
話は横道に逸れますが、僕が表現の自由を支える(1)個人的価値(自己実現の価値)(2)社会的価値(自己統治の価値)について(2)を主に論じているのは、(1)を論じても一部の人たちにはほとんど通じないのではないか、そういう人たちが増えつつあるのではないか、という感覚があるからです。例えばミーガン法の議論でも僕は「有効性(社会的価値)」についての議論が効くだけで、おそらく「人権(個人的価値)とのバランシング」の議論は切って捨てられるだけだと思うのです。「ミーガン法賛成」と主張する人たちには「それにしたって個人の尊厳は守られるべきじゃないか」という言説は届かないのではないか。
これについて、僕も何だか感傷的なコメントを書いてしまったのだけど、ちょっと引っかかるところもあった。ただ、最終的には社会現象として捉えられるのだと思っている。以下、それについて。
コメントを書き終えた後で僕の中に沸いてきたのは、この現象っていうのは(C・J・チェリィの『サイティーン』に出てくる絶妙の表現を借りれば)世の大多数が、「どうしようもなく保守的な、実利主義の畜生」であるということなのではないか、という思いだった。
そういう面は確かにあると思うのだ。読売新聞があれだけの固定読者を持っていることとか、韓国や中国でもインターネットの普及とともに国粋主義的な動きが出てきたこととかを思うと、ブログの普及とともに日本の世論が右傾化していったとしても不思議ではない。というか、これを右傾化と呼ぶのは語義矛盾もいいところで、これまで隠れていた(表現手段を持たなかった)人々が表に出てきたということでしかない。
ミもフタもないことを言うようだけど、日常生活のことを考えると人は保守的になると思う。誰だって余計な労力やお金は使いたくないし、わけのわからない人の隣に住みたくはない。だから、職業的な表現者でない人の発言が多くなると、世論は保守化するといえなくはないだろう。
けれど、これはやっぱりちょっと単純すぎると思う。「民衆は保守的なものだ」じゃあ、今どき大学1回生のレポートでもいい点は貰えまい。
もう少し凝って考えてみよう。とりあえず、「生活者の視点」をキーワードにする。
1.「視点でものをいう」ということ
ちょっと考えると、そこには何の不思議もないように見える。生活者が「生活者の視点で」といい、普通のサラリーマンが「普通のサラリーマンのブログ」を運営する。何がおかしいのか。
たとえば、ブログでミーガン法や拉致事件を扱うとき、多くの人は「被害者の立場にたって」発言しようとする。これはある意味で不思議なことだ。何しろ、この人たちは当事者ではないのだから。イラク人質事件やNHK番組改変事件のことを考えると、この奇妙さはもっとはっきりする。少なくはない数のブログが、政府や政治家の立場でものを言った。彼らが政府や政治家の関係者でないことはかなり確かなことだ。そして、犯罪被害者の場合と違って、ブログ作家がその地位に就くチャンスもなさそうだ。
僕はこの奇妙さと先ほどのまともさの間に、共通点があるように思う。表向きは違っても、何か相通じるものがあるのだ(実際、「右傾化」的なブログが「庶民派…」「普通の…」をなのるケースはけっこう多い)。
もちろん、僕はここで保守系のブログ作家が誇大妄想的で倒錯的な権威主義者であるとか、なんだか欲求不満のたまったファシスト予備軍であるとかいいたいわけではない。「支配されたがる…」というような言い方は単純に過ぎる。
ちょっと話を変える。かつて、柄谷行人が「大衆文学」にこだわってエッセイを書いた。もちろん、柄谷のことだから普通のこだわり方ではない。彼が言ったのは、「大衆」という言葉に何か嘘のようなものを感じるということだ。
…芥川は労働者からかけ離れたプチブルジョア階級の作家であるがゆえに自殺に追い込まれたという。小林秀雄は、芥川には神経しかない、それを知性と混同してはならない、さらに、芥川の浅薄な逆説と違って、真の逆説は生活に根ざしているものだという。 (中略)これらが芥川に対する批評の典型である。要するに、芥川には「故郷」や「自己土壌」や「生活」からの乖離があるというものだ。(中略)小林はその翌々年の日支事変に際して、「国民は黙って事変に処した」と書いた。ぶつぶつ言っているのはインテリの過剰な自意識にすぎないというのだ。だが、このように使われる「生活者」、「庶民」、「大衆」、「国民」といった概念こそ、知識人の自意識、すなわち自意識を否定しようとする自意識が生み出した表象にすぎない。
「死語をめぐって」『終焉をめぐって』(講談社学術文庫)、pp.229-321
細かな用語の定義などをすっ飛ばすと、柄谷が言っているのは発言する時に自分の立場に不安を感じてしまう人がいるということだ。だから彼ら「知識人」は、誰かの代弁者であるというスタンスを取ろうとする。「自意識を否定する自意識」というのは、そういう意味だ。もちろん、その「誰か」が実在するわけではない。
柄谷が扱っているのは昭和初期の状況だが、ざっと60年経った現在にもこの話はある程度当てはまる。ブログのいくつかは、あきらかに「知識人」としてスタンスを取ろうとしていると思う。
ライターが実際に「市民」であったとしても同じことだ。「普通の人の視点から書く」と言った時点で、この人たちは「知識人」的なのだ。彼(女)たちは、世論の流れ(だと思っているもの)を横目でにらみながら書いている。そうやって、ブログ作家としての立場を強化しようとしているのだ。
2.保守的であること
さて、事情が上のようであれば、代弁するものは何であっても構わない。それがとりわけて「庶民」であり、また「国家」であったりもするのはなぜか。
ひとつに「生活者」に大きな説得力があるからだろうか。それはあると思う。マルクス主義的(あるいは農本主義的)な伝統のせいで、「仕事をしてものを作り出している人がエライ」という気分は、確かにある。だが、それだけではないとおもう。「何か」に国家あるいは「国家と同一化する市民」を代入させたものがある。それは多分、80年代末ごろからの風潮だ。
80年代の末頃から「集団よりも個々人の幸福を優先したい」という風潮があった。冷戦終結の前後、バブルのかかりあたりでのことだ。経済成長が一息ついてそれまでの集団主義的な驀進が見直されたこともあるだろうし、都会で生まれて都会で育ってきた人たちが社会の主流になってきたせいでもあっただろう。
こういう風潮は、当然のことながら「集団主義に対する個人主義的なたたかい」という形になる。集団に個人で立ち向かうのでは随分と心もとない感じだが、社会の仕組みをなし崩し的に崩壊させていけば何とかなるのではないかという見通しもなくはなかった。
これが決定的に変わったのは、薬害エイズあたりだ。ここで「個人が集まって、共同で個人の幸福を追求する」という方向が固まった。震災あたりで、この発想は更に固まる。そしてその後、(不況やらワールドカップやらテロやらのせいもあって)「個人を守る国家を尊重する」という方向が出てくることになる。
昨今では、「個人の権利を守ろう」という所からスタートした人の多くが、このコースを辿って国家主義的な結論にたどり着いているのではないかと思う。
もちろん、風潮に拠っているというのは、その主張は嘘だとか本気ではないとかいう意味ではない。ただ、それは随分考えた末の結論であって、直感的に出てきたものではないと思う。その意味で、「これが普通だ」とか「常識だ」とかいう言い方には賛成できない。そういうことだ。
3.展望する
今、世論をリードしているのは「国家と同一化する市民」の要素を多分に持っている人である。この人たちはそうでない要素も持っているのだが、「国家と同一化する市民」を代弁しているつもりでものを書いている。
ここから二つのことがいえる。第一に、「右傾化」は多分に流行の一種だということだ。風潮はそのうち確実に変わる。そうしたら、人々はまた別な視点から書き始めるだろう。
第二に、これは極端な意見が力を持つときのメカニズムと同じだという。「自分の意見」としては言い難いことも、「そう思う人もいる」というスタンスでなら言えるということは結構ある。そして、みんなが「他の人は信じていると思っていた」といってナンセンスなことを奉じてしまうという実例も、結構ある。
これからどちらに転んでいくことになるのか。僕は、景気の回復が鍵だと思っているのだけど。
【改稿】どうも気に入らなかったので、全面改稿。2005.1.27
05:29 PM [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
一つの見識【番組改変問題】
毎日新聞の「記者の目」。牧太郎記者の記事。かなりいいと思う。
半日常的に「権力」から介入され、圧力を受けながら、それを上手にくぐり抜け「真実(に極めて近い事実)」を報道するのが、ジャーナリズム
12:02 AM [映画・テレビ, 経済・政治・国際, NHK番組改編問題関連] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
01/25/2005
殺生
たった今、鳥をはねた。雀くらいのやつ。
高速を走っているときに急に横から飛び出してきて、どうしようもなかった。
鶏や豚のことを考えるとこれくらいという気がしないでもないが、食べるわけではないのだから、あきらかにこれは避けた方がよかったことだ。
あのゴツンという音はしばらく記憶から消えないと思う。
ちなみに、鳥との衝突はこれで二度目。前は2002年6月、あの、忘れもしないトルコ−日本戦の当日である。キックオフに間に合わせようと急いでいて、高速で鳥にぶつかった。帰ったら、ちょうど失点した直後だった。
今日も、悪いことがなければいいのだが。
12:59 PM [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
01/24/2005
西部謙司『Game of People:アジアカップ&ユーロ2004超観戦記』
久々に大阪へ。図書館と書店を回って、いい本に何冊も出会った。その一冊。
『Game of People:アジアカップ&ユーロ2000超観戦記』西部謙司、双葉社(1600+)
手錬のサッカー記者、西部さんの最新刊。サッカーマガジンでの連載がなんだか「辞典」になってしまって困惑していたのだが、ここでは彼の名調子が読める。
今回は、去年行われた二つの国際大会のレポートが中心だ。書店で見かけたとき、終わってしまった大会のことなんて・・・と一瞬思ったのだが、これが意外に(失礼!)面白い。今、日本代表を書かせたらこの人の右に出るものはいないかもしれない。
さて、本書は前半のアジアカップパートだけでも完成した作品として読める。ここの出来が素晴らしい(後半も悪くないが、ページの半分がカタカナというのはちょっと辛い)。
練習と試合を一つの流れで見て、ジーコの長所と短所を指摘し、中国の観衆のブーイングを「観戦に不慣れなだけ」と冷静に観察する。ところどころに「う」で始まる人ではないかと思われる悲嘆慷慨派の記者が出てきて、軽くいなされているのも楽しい。
そして、あのPK戦のシーンで泣かせる。引用は宮本が申し出てサイドを変えさせ、さらに三都主がもう一度蹴ろうとしてスタジアムが騒然となるシーン。
三都主もそれほど期待していたわけではないだろう。ただ、主張すべきことは主張しておいた。宮本がそうしたように。往生際が悪いといえば、確かにその通りである。見苦しいと言えば、見苦しかったかもしれない。だが、それは見ていて鳥肌が立つほどの見事な往生際の悪さだった。完全にダメとわかるまで諦めない。負けるまで負けを承知しない。
「息をしているかぎり、このチームは何かをやってくれる」
息が止まるまでは生きてやる。死ぬまでは生きてやる。
PK戦は運だ。もちろんキッカーとGKの駆け引きがあり、技術もある。精神力もある。だがしかし、PK戦は圧倒的に運の領域である。勝つか負けるかは運次第なのだ。どちらに転ぶかなど、誰にもわかりはしない。どんなに頑張ろうが、ゾンビのような不死身の精神力を見せつけようが、それが結果を保証するものではない。運の前では人は無力である。
その期に及んで、この往生際の悪さは何だ。ただ、姿勢の問題である。覚悟のありようである。単なる悪あがきではない。日本代表チームは、死の瞬間まで、生ある最後の瞬間まで、ただ前のめりに生きることに決めたのだ。(p78)
このときの宮本とアレックスの「いさぎ悪さ」については、日本でも批判があったように記憶している。僕はいいと思ったのだけど、それをこれだけ見事に表現している文章は初めてみた。
ちなみに、西部さんは返す刀で、「イラン×日本戦」の最後の3分間、ドローにするための「取引」を批判している。同意するかどうはともかくとして、一貫しているのもいい。
07:25 PM [football, スポーツ, 読書メモ] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
どんな棒なんだ
昨日はFedoraで、phpを使ってMySQLをコントロールしようと苦心惨憺。
結局、何の成果もなく終わった。まる一日、棒に振ったという感じ。これからどうしようかな。ディストリビューションを変えることも含めて検討中。
というか、素直にMSオフィス使った方がいいのかも。
11:26 AM [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
中田浩二問題:ちょっと偉そう
KET SEEさんのブログにも書かれているのだが、そもそもの問題は日本の移籍金市場が国際水準からかけ離れている(というか、国際ルールでは移籍金は存在しないの)ことにあるのではないかと思う。
国際ルールから言えば、移籍金と新人獲得でチームを大きくしていく、という戦略はもう時代遅れになっているのだ。移籍金なしで選手を手放す代わりに移籍金なしで選手を取ってくる。そして営業収入で勝負する、というある意味、王道なプランになっているわけで、日本もそういう方向に行った方がいいのではないかという気がする。
もちろん、そのときに制約になるのは外国人枠だ。中田浩二クラスの実力を持っている人は日本にはそういない。そこで海外に目を向けるのだが、3人しか保有できないのなら中田浩二クラスの実力では心もとない。では日本人を獲得しようとするとお金が2億も3億もかかってしまう。そういう構図になっていると思う。
日本と外国の制度の違い、というと、僕のような世代は昔懐かしい「非関税障壁」のことを思い浮かべしまうのだが、この場合は選手を「輸出」しようとするクラブが損をするという点で、貿易摩擦のような話とはちょっと違う。
というか、これだと実力のある選手、強いクラブほど損をする形になってしまうのではないか。
別に彼をおとしめていうわけではないが、中田浩二クラスの選手なら海外にはごろごろいる。向上心と競争心に富むアスリート(というか、向上心と競争心はアスリートの絶対条件だから、真のアスリート)にとって、その環境に飛び込みたいという欲求はむしろ自然なものだろう。もともと、外国人枠は日本人選手の実力を向上させるためにあったはずだ。それが逆に作用するのなら、そんなものは取っ払ってしまった方がいいと思う。
海外では並の選手だが、日本にいればスーパースターだ。そういう構図は外国人枠がある限りなくならない。怒りの矛先は、むしろJリーグ機構に向けられるべきである。
11:13 AM | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
01/22/2005
The game we play【番組改変問題の続き】
テキストで議論するとき、「相手の人格や態度を直接攻撃してはならない」というのは基本中の基本だと思う。だが、見ているとNHKと朝日新聞は、この点に関して双方初心者同然である。BBSやブログで少し修行されてはいかがか(w。
まあ、僕も人のことは言えないけど。
ところで、本題。
「言論の自由」や「政治介入」という言葉はフィクション、という言い方がきつすぎるのなら「代名詞」である。現実をある範囲で切り取る言葉で、それ自体にはっきりした実体があるわけではない。だから、何をそのように呼ぶのかは人によって違ってくる。
NHKと朝日の議論が不毛なのは、本来問題にすべき「何を政治介入と呼ぶのか」という段階をすっとばして、それより2歩ぐらい手前にある「何が起こっていたのか」と、最終段階で出てくるはずの「言論の自由は守られているか」とをごっちゃにして議論しているからである。論争が段階的に展開されていないので、双方が勝手な横道にそれてしまうのだ。
もちろん、上の言い方は哲学的・認識論的には正しくない。実際には我々は先入観に基づいて事物を認知するからだ。先ほどの僕の言い方は、「先入観と事物の存在」→「観察」→「評価」→「論理」→「先入観の再確認」という流れを再構成したものにすぎず、それ自体がフィクションである。
それでもわざわざ書いたのは、この手順を守るふりをすることが大事だと思うからだ。これは、我々が守ることになっているゲームのルールである。それを無視するのは、サッカーの最中に「手でボール持った方が便利じゃん」と言い出すのを同じことだ。コトがまともに進まなくなってしまう。
というわけで、「政治介入」や「言論の自由」について、考えていることを少しまとめてみようかと思う。ブログで意見を述べるということについての、僕なりのルール遵守の形として。
僕は、言論の自由とはまず第一義的に政府・統治者の側から干渉されずに、発言(出版・報道を含む)ができることだと思っている(おもに「行儀作法」と関係する一定の制約はやむをえないが、それはまた別の話だ)。
政府や公共機関・公職者に対する報道では、明確で疑問の余地のない誤りが立証されない限り、メディアに訂正や謝罪の義務はないと考える(このあたりは、dead letterさんの議論を参照)。
従って、政治家や政府関係者がテレビの番組や放送方針について何かを言うことは、それ自体が問題になる。それが単なる意見であってもそうだし、まして放送前ならなおさらだ。その意味で、安倍幹事長代理と中川経済産業相のしたことは立派な政治介入だと思う。
では、なぜ言論の自由がなければならないと考えるのか。それは(自由が好きだからではなく)、この権利が民主政体の基本だと思うからだ。
民主制というのは、要するに統治者と被統治者を平等の立場に置くということだ。統治者が特権や富を持つのはまずい。だが、司法や立法や行政を担う人は必要だ。このふたつの問題を調整するために我々は被統治者が統治者を選別・雇用するという仕組みを持っていて、それが民主政体である。
民主政体のもとでは、被統治者の意思表示は二つの方法で行われる。長いスパンでは選挙で、短い期間ではメディアで。また被統治者の意見を集約する必要もあるが、これを担うのもメディアだ。
だから、政治家がメディアに介入するとおかしなことになる。たとえていうなら、生徒が自分の成績を書き直させようとするようなものだ。あるいは、「権力者は権力を無限化しようとする傾向をもつ」という民主制と関係の深い想定を受け入れるなら、政治家のメディアへの加入は危険な兆候であるともいえるだろう。
政治家は言論に介入してはならない、というのはだから、我々の社会の基本的なルールの一つなのだ。メディアの独立は、特に注意して守られなければならない。それが侵されることは、民主政体の崩壊につながる。もちろん、(権力者でない)個人の利益はメディアの利益に優先されなければならない。この点で、「マスコミの思い上がり」のようなものは確かにあると思う。けれど、それを口実に政治家が何かしていいわけではない。
ついでにいうと、これは政治的中立性とは何の関係もないと思う。というか、僕はメディアが政治的に中立であるべきだとは思わない。そんなことは不可能だし、不必要だ。メディアは政治の状況を伝えなければならない。語る以上、偏りはかならずある。一社独占でないなら、偏りは問題にならない。単に売れたり、売れなかったりするだけだ(たとえば、産経新聞という僕には赤旗新聞の次に政治的に偏っているように見えるメディアがあるが、それが社会問題を引き起こしたと言うような話は聞かない)。メディアは好きなだけ偏ればよいのだ。判断は国民が下す。逆に、メディアに政治的中立を強要することは、受け手である国民に政治的志向を禁止するに等しい。それは、報道内容を政治がコントロールするのと同様の、非民主的な行為だ。
03:13 PM [経済・政治・国際, NHK番組改編問題関連] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
01/21/2005
吉例に倣い
仕事が一段落したのを記念して、松阪駅前でランチ。
焼肉定食1500円。旨い。来年はビフカツに挑戦してみよう。
12:07 PM [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
話を展開するための自分用メモ
介入があった、というストーリーがフィクションなら、介入はなかったというストーリーもフィクションだ。水掛け論だな。
とはいえ、それなら言論の自由も放送の中立性もフィクションだろう。いま行われているのは、フィクションをめぐる象徴闘争なのだと思う。社会の本質は案外こんなところにあるのだろう。
なにがいけないのか、シニカルに逃げないで、きちんと言葉にしよう。
11:23 AM [NHK番組改編問題関連] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
まる1年悩んだよ−。
まだダイアルアップだったころに「世界一速い」というキャッチにやられて以来、ブラウザはずっとOpera。
便利なブラウザだと思うのだが、日本語入力をオンにするときにキーボードショートカットが発動されてしまい、予期せぬ動作をするのが唯一シャクに触っていた。前は101キーボードだったので問題なかったのだが、一昨年の秋に日本語キーボードに変えて以来、このトラブルが頻発するようになった。「な」行の文字を入力しようしたはずみにお空の星になってしまった記事は、一つや二つではない。
何とかショートカットを無効にする方法はないものか、と探していたところこの記事を発見。
IMEをONにするときにaltを押さずに半角/全角押してみればどうでしょう?
結構幸せになれます。
し、幸せにはなったけど…。
12:24 AM [パソコン・インターネット] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
01/20/2005
サーチつけてみた
グーグルの広告表示がだいぶこなれてきた感じがするので、拡張。ついでにサイトサーチも導入した。
aoqloのみなさん、これでお目当ての試合のレポートが一発で探せますよ!(w。
と思ってテストしていたら、幾つかのキーワードではカテゴリアーカイブに飛ぶことがわかった。
そうか、固定リンク押さない限り、個別記事のページは生成されないんだよな、と改めて認識。
09:51 PM [ウェブログ・ココログ関連] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
CD:越智順子 "I want you"
大阪の物凄いかっこいいボーカリストが、大阪の物凄いかっこいいミュージシャンを集めて作ったジャズCD。かなり良い。
母親に頼まれてアマゾンで買ったのだが、ジャケットを見て妹が爆笑していた。何でも、ピアノの人と現場で一緒になったことがあるらしい。その他のアーティストにも心当たりがあるらしく、「大阪で一番うまい、って言われるような人ばっかりや!」と感動。
僕としては、04:MOONDANCEのギター、09:COME TOGETHERのアレンジ(なんとタンゴ!)に強く魅かれた。
もちろん、全て越智順子の卓越したボーカルがあってのことだ。
ちなみに、歌詞カードで英語詞の翻訳をしているのは何と、安則“Chaka”眞実さん。
このCDがどれくらい渋くてかっこいいのか、わかる人にはこれでわかるのではないかと思う。
08:32 PM [音楽] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
関わりたくない気持ち【番組改変問題】
他でも指摘されていることだが、事態は子どもの喧嘩みたいになってきた。
正直、こういう水掛け論には関わりたくない気持ちがあるのは事実だ。
ただ、ちょっと邪推しておくと、そもそも事態をこういう風にしてしまおう、というのが政治家側の狙いなのではないかとも思う。少なくとも、「“真相は闇の中”的な、なんとなくいかがわしい事件」という位置づけにしてしまえば、一番得をするのは彼らだ(ポスト小泉にむけて、ソフト路線に切り替えても行きたいだろうし)。
というわけで、まだもう少しこの話はフォローしていこうかと。
11:08 AM [経済・政治・国際, NHK番組改編問題関連] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
01/19/2005
新聞の取材
昨日の夜、もう一個やっているブログの件で2度目(というか、3度目?)の取材を受ける。
今回は朝日新聞の人。前と同じく若手の記者さんだが、毎日新聞の人に比べるとぎらぎらしている(というと感じが悪いな、えーと、エネルギッシュな)印象の人だった。僕としては、まあ、自分にできる範囲で頑張って答えたつもり。
記者さんのエネルギーがうまく生かされて、よい記事になると良いと思う。
08:15 PM [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
救命病棟24時
母親が見ていたので横目でちらちらと。
第一印象は、「地震直後に被災者が高覚醒にも多幸症にもならないという稀有な震災を描いちゃったドラマ」。
正直、何のリアリティも感じないし、怒りすら覚える。
激しい揺れの後、人は著しい高揚感を経験し、その後、状況に過剰適応してしまう。これ抜きに震災体験は理解できないと思う。医科長が一喝しただけで静かにはならないし、おとなしく診察を待つこともない。口々に被害の状況を話し、無事を確かめ合い、ハイになって救助に走り回ってしまうはずだ。
「いつ、どんな時期・地域でも巨大災害の直後には、(中略)フツウではない精神状態が出現し、一定期間持続する。これは災害の結果ではなく、災害の一部である」(野口武彦、『安政江戸地震』、ちくま学芸文庫、p19)のだ。それを描かずして何のドラマなのか。
新潟地震に気を使って自粛したというような話も聞くが、それでああいう気の抜けた描写になるのなら、そもそも震災を題材にすべきではないと思う。
12:54 AM [映画・テレビ] | 固定リンク | コメント(1) | トラックバック
NASAおそるべし
地球儀型ブラウザで世界中のランドサット写真が見られるソフトを発見した。
提供しているのはNASA(サイトはここ)。
映像はダウンロードして確認していただくしかないのだが、かなりの迫力だ。フルズームで高度8000mくらいの視点にできるから、飛行機から見下ろすのと同じくらい。3Dにして斜めから見たり、地図情報と重ねたり、いろいろできる。しかもタダ。
12:12 AM [パソコン・インターネット] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
01/18/2005
地方紙頑張る【番組改変関係】
TBをくださったSuper Neurotic Junctionさんのその名に恥じないまとめ記事から、Kitanoのアレさんの改変問題関係の社説を集めた記事を発見。
こうしてみると、地方紙がかなりストレートに批判をしている感じだ。がんばれ信毎。
07:17 PM [ニュース, NHK番組改編問題関連] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
大黒緊急招集
「昼頃になって、やっと久保がおらんことに気づいたんやで」とか、
「宮本に電話してもろたんと違うか」などと冗談で言っていたのだが、
本当に突然電話があったらしい。
さすがに、遠藤から「おい、ちょとジーコが呼んでるから」という電話があった、のではないと思うけど。
というか、真面目に「番組改変問題」とか書いた後で、こういうのを書くのはちょっと勇気がいる。ほどほどにしよう…。
04:51 PM [ガンバ大阪] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
まだ終わらない【番組改変問題】
テレビだけなら、反論コメントで終わっていたかもしれないけど、ネットではちょっと違う。新聞の情報もあっというまに共有できる。
というわけで、Dead Letterさんが、安倍・中川両氏の発言の変遷を詳しくフォローした記事を出してくれた。
両氏がゴマカシ・隠蔽をしようとしているのは明白。
二人とも最初は全くの無警戒であり、そもそも何が問題なのか分かっていなかったのではないか、というのが僕の考えだ。もしそうなら、両名とも近代国家におけるジャーナリズムのあり方について著しく見識がない、或いは少なくともその近代国家のトップを狙う政治家としての資質に欠けると言わざるをえない。
という意見に全面同意。
もうひとつ、駝鳥さん(こういう呼び方でいいのだろうか)が、朝日新聞の記事についてまとめてくれている。
抗議や謝罪要求を受けたせいだと思うのだが、朝日も本気を出してきた。とくに、駝鳥さんが触れられている「NHK番組改変問題、本社の取材・報道の詳細」という記事は迫力がある(発言内容のフォローのほうはDead letter blogのものと大差ない)。常識的に考えて、これだけのものを捏造できるとは思えない。もしこれが事実でないというのなら、新聞取材に応じたNHK幹部などが実名で登場して説明すべきだろう。
【おまけ】
しかし、それにしても不思議なのはこの政治家たち(どうやら、安倍・中川両氏だけではないようだ)の対応の仕方である。問題があると思うのなら、新聞なりテレビなりで「今夜、NHKがやる予定の番組は偏向していると思います。みなさんもご覧になって一緒に憤慨してください」という“意見”を発表すれば良いようなものだ。中川氏には、国会で質問するという方法もありえた。
大筋で間違ったことが言われているなら、見た人にはわかる。それをあえてウラから手を回したというのは、よほど都合の悪いことが入っていたのか、それとも国民の理解力を徹底的に低く評価していたのか。
ETV特集の影響力がそんなに大きいとは思えないのだが、そのあたり、どうなんだろう。
「テレビに出ただけで、俺みたいなのにも人気が出るんだから、油断はできないぞ」と思っちゃったんだろうか。
04:25 PM [経済・政治・国際, NHK番組改編問題関連] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
01/17/2005
「そんなに燃えるなよな・・・」
阪神淡路大震災から10年。
あの時、僕は小さい頃暮らした仁川の家と祖父を失った。
奈良でも感じられたあのものすごい揺れと、振動する家具や建物が発するなんとも形容しようのない物音は、まだ記憶のなかにある。
震災で覚えておくべきことは、理屈や教訓なのではなく「感じ」なのだと僕は思っている。あのときに失ったものや人のことを憶えておくこと。傷を、傷のままにしておくこと。それが、震災を弔う方法だと思う。
ひとつ、鮮明に覚えていることがある。それは、あの日の夕方に神戸市長田区の火災現場から行われた読売テレビの中継だ。若い男性のレポーターが、理も非もない感じで絶叫していた。
「これはもう、神戸じゃないです」と、火災現場を背にして彼は言い、振り向いて炎に向かって叫んだ。「そんなに燃えるなよな・・・!」。最後の方は、涙まじりだったかもしれない。
僕にとってこの絶叫は、震災についての至言である。もちろん、これが無意味な叫びであることは承知のうえだ。基本的に、そこは神戸でなくなるわけではなかった。被害の軽減と再建が課題であることは、もうすでにあきらかで、全国放送ではその辺りが議論されていた。それにもちろん、炎に向かって「燃えるな」と言っても火が消えるわけではない。だから彼としては、「こんな火事には負けません」とでも言っておいたほうが、ずっと適切だっただろう。
でも、実際にはそういうもんじゃなかったと、僕は思うのだ。本家の片付けで何度も被災地に入って、ほんの少しでも震災を肌で感じたものとして、つくづく思う。あれは立ち向かえるなんてもんじゃなかった。「そんなに燃えるなよな…」と、絶叫するしかないような、凄まじい無力感に満ちた体験だったのだ。
その感じを憶えておくべきだと思う。
何もかもが崩壊し、我々にはなす術もなかった。あれは、そんなにも物凄い出来事だったのだと。
05:46 AM [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(3) | トラックバック
01/16/2005
U−20
家長も出場。鋭いドリブル突破を見せたらしい。いかった。
10:10 PM [ガンバ大阪] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
そういえば
藤本はあのときの育英の主将だったんだなあ。
知らなかったよ。
10:04 PM [ニュース] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
不偏について
今日もNHK番組改変問題の続き。
池田信夫さんが、Re:番組改変問題という記事で次のように書かれている。
私も、当の番組については問題があると思う。この「女性国際戦犯法廷」というのは、法的拘束力のない政治的イベントにすぎない。(中略)教育テレビは放任状態だから、こういうおかしな企画が通ってしまうことはよくある。それをバランスのとれた番組に編集するのは当然だが、自民党にお伺いを立てるのはおかしい。安部氏に「予算の説明」をするのに、国会担当だけでなく放送総局長が同行したのは、この番組について釈明するためとしか考えられない。(中略)
だから問題の本質は番組の内容ではなく、それを編集する過程で自民党の意向を聞き、それに過剰反応して番組を改変した手続きにある。NHKが説明責任を負うのは、政治家ではなく視聴者である。
内容云々でなく介入そのものに問題がある、という意見は結構たくさんのブログに見られるもので(僕も昨日書いた)、大体この方向に行くことになるのだろうと思う。駝鳥さんが言われている
番組内容に立ち入った検討はさし当たって不要と思われる。内容がどうあれ、問題なのは政治家がプレッシャーをかけたのかかけなかったのかであり、内容そのものではない。内容の公平性中立性(放送法3条の2)については放送法が義務規定を置いているが、それ自体については、放送局が自律的に判断すべきことであり、昨年11月にも、公共放送局の編集権の自律性が強く強調された最高裁判決が出たばかりである*4。
という文章が最大公約数になるのだろう。これは全くその通りだ。
ただ、これだけでは十分ではないと思う。もう少し考えておくべきことがある。
放送内容は放送局が決めるべきだと言う、それはそのとおりだ。文句は消費者が言うべきだ、それもまっとうな意見だ。だが、それで十分なのだろうか。
たとえばNHKの場合、消費者は日本でテレビを持っている人全員である。そのなかには安倍・中川両氏も入っているし、従軍慰安婦否定論者もそのなかにいる。彼らが「個人的な意見」として“偏った”番組の放映に反対し、NHKが「局独自の判断」として番組をカットした場合、それで問題ないということになりはしないか。
「合法的なファシズム」みたいな話だけど、実際問題としてそういう可能性は否定できないと思う。
「偏っている」という言葉の意味を、もう少し考えたほうが良いのではあるまいか。
たとえば今、大阪やない党という政党があったとして、「言葉は上方、なかでも船場言葉がよろしおます。ついては、まず放送をあんじょうしてもらわなならん。手始めにNHKを三枚に下ろしますな」というような主張を掲げているとしよう。
このとき、彼らの主張をいれてNHKが使用言語を大阪弁に切り替えたとしたら、それはあきらかに「政治的な偏り」だろう。だが、そうしないことにも問題はある。
なぜなら、それは「大阪弁で放送をすべきではない」という主張への偏りだからだ。そうでないということはできない。大阪弁支持は少数の極端な意見だと言っても、それは「我々は多数派につく」という宣言に過ぎない。
つまるところ、この場合は「偏らない意見」などはないということなのだ。どう転んでも反対サイドから見れば偏っていることになる。だから、特定の立場を取ることで不党不偏だと言うことはできない。
大なり小なり、意見というのはこういう感じのものなのではないか。
「偏らない」というのは、特定の立場を取ることではないと思う。むしろ、全ての立場をちょっとづつ(社会的ウェイトに応じて)取ってみる、というのが一番近いのではあるまいか。
そういう意味では、最初に見た池田さんの紹介のように「教育テレビの一部を無法地帯にしておく」というのもいいのではないかと思ったりするのだが、どうなんだろう。
02:00 PM [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック
01/15/2005
放送内容は問題ではない
番組改変問題について、池田信夫さんが経験をふまえて次のように指摘している。
「局長試写がしばしば行われる」とか「改変ではなく通常の編集だ」というのは、嘘である。NHKスペシャルでも、局長室で試写することなんかない。また、放送の3時間前になって放送時間を短縮するのは「通常の編集」ではありえない。
こういうのを見ると、やはり何らかの介入があったことは間違いがないと思う。繰り返し書いているが、これは許されてはならないことだ。
ただ、番組内容の評価はこれとは別である。このあたりははっきりさせておかなければならない。僕は放送(されるはずだった)内容に賛同するから、改変に反対しているのではない。
そもそも、僕はこの番組を見ていない。知らなくて見なかったのではなく、知っていて見なかった。それは、模擬法廷という形式に無理があると思ったからだ。これに関連して、ダグラス・ラミスの文章を引こう。これは1982年に東京で開かれた、イスラエルのレバノン侵攻を裁く国際民衆法廷についてのものだ。
ごく単純にいってしまえば、法廷とは原告と被告人、あるいはその代理人の間で交わされる主張と証拠の抗争であり、証拠と主張がすべて提出されるまで判断は保留することを誓った人ないし集団の前で、一定の形式上の手続きの規則に従って行われるものである。法廷の評決の権威は、このような抗争を観察することが、犯罪の告発が行われている事件の事実と正義を決定する最善の方法であるという理論に基づいている。しかし判決がこうした特別の権威を持ちうるには、実際にそれが提出された証拠と主張に依拠したものでなければならない。(中略)
国際民衆法廷がはじまる前、私はこれを組織している人たちに対して、イスラエル政府の立場が代表されるべきであると主張した。私に対する答えはたくさんあった。イスラエル政府は絶対に代表を送ってはこないだろうとか、イスラエル政府が公式に認めない代表をたてたりすれば、裁判自体がパロディになってしまう、両者の間はあまりにかけ離れているので理性的な議論など不可能である。いずれにせよイスラエルの有罪は周知の事柄だ。こうした主張はすべてまったくその通りかもしれないが、そこから引き出される結論は、イスラエルのレバノン侵略に関する法廷は、(1)不可能、かつ(2)不必要だということになる。もうひとつ出された主張は、この法廷が宣告したり処罰をする力は何もない以上、法廷内では被告人の代表は必要ないというものであった。(中略)だが、互いに争う両者の間で自由な論議が行われる空間を設けることによって真理を決定する方法が法廷なのだという主張に対しては、これは全く答えになっていない。(中略)
私のこうした反対意見は、組織している人びとに不可能な要求をつきつけていることは分っている。中立的な国際陪審員団の組織などどうして可能といえよう。誰がイスラエル政府を代表しえよう。(中略)こうした問いに対して私は答えをもっていないが、それでもまた別の法廷を組織しようとする人たちは、その答えを見つけるべきだと思う。
C・ダグラス・ラミス、加地永都子訳、「体験としての国際民衆法廷」『ラディカルな日本国憲法』晶文社、pp.65-66
よく読んでいただければ、この主張が中川経産相の意見とほとんど変わらないことがお分かりいただけると思う(ちなみに、ラミスさんは左翼の論客である)。僕も、この意見には基本的に賛同する。民間法廷にはあきらかに無理がある。
でも、そのことと放送は別だ。正しいか、正しくないかは視聴者と制作者が決める。そこに介入があってはならないのだ。
12:49 PM [経済・政治・国際, NHK番組改編問題関連] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
中田浩二
マルセイユでの練習参加(実質的にはテスト)の結果は、「双方好印象」という感じで終わったようだ。
以前、「中田浩二は無理やりDFをやらされたせいで、トルシエ監督が大嫌い。一刻も早く忘れて、ボランチに専念したいと思っている」という報道をたくさん見たような気がするのだが、あれはどうなっているのだろう。
要するに嘘だったってこと?
12:11 PM [football] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
ツボ知ってますね、この人は
「木場さんが築いたものを汚さないためにも、今年はこれまでと違った1年にしたい」
・・・ここは素直に泣く。
11:30 AM [ガンバ大阪] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
01/14/2005
久々にガンバ
ユースの渡辺くんが水戸に行ったり、矢野が鳥栖にレンタルされたり、井川のレンタル(名古屋)が延長されたりと、いろいろやっている模様。
チームも始動しはじめているけど、監督が迷っていたりと色々あるようだ。
僕としては、ピッチの上で姿が見られるまでは静観、でいきたいなと。みんなプロだし、外からではわからない事情もあるだろうから。
あ、そういえばありがとうマグロンを書くの、忘れてたかも。
09:52 PM [ガンバ大阪] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
奇妙な弁解【番組介入問題】
NHKの番組への介入問題で、両政治家が釈明。
安倍幹事長代理は、「呼びつけてない、向こうから来た」という趣旨の発言。それが何の言い訳になるのかよくわからないのだが、夕方のニュースで見た限りでは、これでいけると思っている様子だった。
もっと不思議なのは中川経産相。「NHKに“意見”を言ったのは放送の後だった。放送中止を求められるわけがない」と主張している。しかし、こっちの記事では、
朝日新聞社の取材に対し、NHK幹部と面談したことを認めた上で「疑似裁判をやるのは勝手だが、それを公共放送がやるのは放送法上公正ではなく、当然のことを言った」と説明。「やめてしまえ」という言葉も「NHK側があれこれ直すと説明し、それでもやるというから『だめだ』と言った。まあそういう(放送中止の)意味だ」と語った。
となっていて、まことに奇妙だ。正確かどうかはともかく、こういう感じのことを言ったという記憶がなければ、このコメントは出ないのではないか。そして発言の趣旨がこれなら、放送後に言うのはなぜか。
僕には、「放送後にしておけば、放送法違反にならない」ということで誤魔化しているようにしか見えないのだが、何か違うことがあるのだろうか。
しかし今回のことで思うのは、ヤバイと思ったら沈黙してしまう人がいかに多いかである。ちょこっと反論が出てくると、メディアもあっというまに黙ってしまう。
正直、まだ何が確定するという段階ではない。かなり話題になっていた不自然なカット、どう考えても黙っていたほうがメリットがありそうな現場の人の発言と、隠せば隠すほど得をするという政治家の立場、などを総合的に勘案すると、この段階で「でっち上げだ」と断定することは不可能だと思うのだが。
沈黙が多い中で、Dead letter Blogさん、 muse-A-museさんの記事は頼りになった。あと、museさん経由でたどった、池田信夫blog さんの記事にも感謝。
【追記】
大西宏のマーケティングエッセンスさんにまとめの記事があることがわかった(見たとこ有名人さんみたいなのでどうかと思うけど、一応TB)。
あと、そこ経由でみたOPC Diaryさんの記事と、るびーな日常さんの記事にも全面賛同(お2人にも勢いでTB送っちゃったけど、やめたほうが良かったかな)。
09:15 PM [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック
01/13/2005
放送介入問題【追記】
【後日改変部分】前に書いた記事へのTBでも指摘されていることだが、今回の事件は一見して不当なのかどうかがわかりにくい。というか、細かく分解していくと正当に見えていく部分がある。
たとえば、放送内容は従軍慰安婦と戦争責任についてのものだ。この文脈では、責任は「ある」か「ない」かのどちらかである。そのどちらをとるにせよ、内容が「偏向」しないわけはない。また、表向き、政治家たちは意見を言っただけだ。意見をいうことが不当であるわけはない(鈴木宗男だって、NGOへの「質問」では有罪にならなかった)。
しかしそもそも、政治家が公然と不法なことをするだろうか。彼らは合法的な装いができると見たから、介入したのだ。こういう場合に、彼らが使った抜け道を再確認してあげる必要はないと、僕は思う。【後日改変部分終わり】
僕は、閣僚と与党幹部が意見をいうこと自体が問題だと思う。予算に影響力があるから、彼らは単に質問をするだけで、放送内容に介入することができるのだ(「これは介入とか、そういうことではないのですよ」と言うことすらあると聞く)。特に、今回のものは非常にセンシティヴな問題で、しかも予算の説明と同時期だった。政治家が何を言ったとしても、介入と誤解されるおそれがある。
言論の自由が民主主義社会の基本であり、権力はつねに監視・検証される必要があることを理解しているのなら、絶対に「意見を言う」ことすら避けるはずだ。
それをあえてしたということは、彼らが僕たちの社会と根本的に相容れない人物であることを示している。こんな連中を、責任のある立場につけておくことはできない。僕なら、自治会の経理でも任せない。
【後日改変について】
2004.1.13。おいらブログさんのコメントを受けて、リード文を改変。mitsuさんゴメン。
11:38 PM [経済・政治・国際, NHK番組改編問題関連] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック
絶対にあってはならないこと【放送内容に政府・与党幹部が介入】
以前から話題になっていた、NHK番組の内容改変が安倍晋三(現)自民党幹事長代理と中川昭一(現)経済産業大臣の介入によるものであることが、内部告発で判明。
ちなみに当時、安倍は内閣官房副長官、中川は自民党広報本部長。番組は従軍慰安婦問題との絡みで、昭和天皇の戦争責任を扱ったもの。
つまり彼らは、政府・与党の幹部として権力批判を封殺したのだ。
これはもう、番組の内容の正当性とか、介入の具体的影響の有無とか、そういう問題ではない。権力者が権力批判に介入することは我々の社会を根本から揺るが