04/04/2006

宇宙通信:監視社会について

久々に左翼っぽく、ガンバでないネタ。宇宙通信は去年に続いて2回目ですな。

今回の宇宙人は科学史の研究者としてお馴染みの金森修さん。問題にしたいのは、監視社会について書いている文章こちら経由)。いや、この人の地位、経験、業績は認めるし、まともなことも書いているのはその通りだ(今回の結論のようなことは僕も考えたことがある)。が、これはちょっとどうかとおもう。

要するに、監視国家の監視専門員がたえず心を躍らせていられるほど、犯罪やテロ、重大事故や天変地異ばかりが続く社会などは、想像しがたいということである。普段あくびをしたり、うたた寝をしたりすることもある人民と比べて、監視要員だけが、一瞬たりとも気を抜かずに、監視カメラを覗き続ける能力がある、などと想像する方がどうかしている。彼らもまた、あくびをし、うたた寝をし、ひょっとすると暇に任せてこっそり昼間から酒盛りをしているかもしれない。カメラがいくら高性能であろうが、それを使うのは、彼ら、結局はわれわれと同じ普通の人間だろうからだ。
 それは、つまり、そんな監視社会などを膨大な経済的投資や、技術開発と人員整備の果てに創り上げたとしても、そもそもいったい何の役に立つのか、という話になる。少なくともいえるのは、それはとてもコストパフォーマンスに見合うような話ではなかろう、ということである。
 以上のような理由で、私には、ビッグブラザー型監視社会、ないしは管理社会というのは、どこか〈馬鹿らしさ〉を抱えた社会像に思えるのだ。


前に、『サイエンス・ウォーズ』を読んだときにも思ったのだが、この人は自然科学分野に関するシビアさと比べて、人文・社会科学についてのツメがかなり甘いときがある。その辺は専門じゃないから仕方がないかと思ったのだが、今回の文章を見ると単に想像力が不足しているだけのようだ。


カメラを備えたとしても、監視要員は人間でなければならないという。それを補うためのパノプティコン方式にも限界があるという(引用は省略)。

 ア フ ォ か 

この人は、自動化ということを知らないのか。人間には確かにできない。だが、コンピューターなら常時監視はできるではないか。

僕はよくオービスとNシステムの対比を引き合いに出すのだけど、オービスが速度超過車両の写真を撮影し、人間がそれを確認するするというシステムなのに対し、Nシステムは通過するすべての車両のナンバーを自動識別し、データベース化することができる。人間が関与するのは動向を知りたい車両の登録番号を入力するときだけだ。後の時間は、「あくびをし、うたた寝をし、暇に任せてこっそり昼間から酒盛りをして」いても構わない(もっとも、そんな公務員は勤務態度自動測定装置によってチェックされ、はねられていくことになるのだろうが)。

もちろん、これは車の話であるに過ぎない。だが、まだ実用化されていないとはいえ、文脈解析、音声入力、画像識別技術の開発はどんどん進んでいる(9.11テロがその傾向に拍車をかけたことは言うまでもない)。それが悪用されるかどうかはまた別の問題だが、全社会を監視しうる技術の実現はすでにタイムテーブル上に載りつつある。必要に応じて、ある種の話題を口にした人を検索することも、ある人の全行動を手軽に検索することも、できるようになろうとしているのだ(web上でなら、そのことはある程度実現している)。科学・技術の専門家として、そのことを知らないのなら怠慢だし、知っていて言わないのなら不誠実だ。肩書きを出さないならともかく、「東大教授、科学史思想史・現代科学論」として書く文章としては不適切としかいいようがない。

もうひとつ。この文章にはどう見ても矛盾としか思えない箇所がある。管理社会が不可能であるということについて、金森は次のように書く。

自分の本心を自分に対してさえ韜晦できるくらいの精神の繊細な政治性を、実はたいていの人は身につけている。技術的洗練や制度的整備、さらには政治的威嚇や宣伝をたとえどれだけ繰り返そうが、最終的には、個人個人の生の軌跡を完全制御や完全管理することなど、できるわけはない。

この論点は結構納得させられる部分で、「お、それなら技術的に可能かどうかは考えなくていいじゃん」という気分になる。だが、結論部分に出てくる以下の指摘。

管理社会が問題になりうるのは、管理社会が実際にわれわれを管理し尽くすという危険性があるから、というよりは、個人が、その管理傾性を内面化し、あたかも管理者の側に自ら迎合するかのような萎縮をしてしまうから、またはその逆に、あまりに強い反感をもつために、公共性との繋がりを一切遮断し、一種矮小な私小説的生活に沈潜してしまうから、である。

いや、だから貴方のいう「面従腹背」の結果が、「迎合」「沈潜」なんじゃないですかって。そうでしょ?表向き怪しまれるようなことを慎んだり、人から見えないところでだけ本心を明らかにしたりすることが可能で、だからどんなに監視されても大丈夫だといってるんだから。それがダメだっていうんなら、そもそも監視そのものがダメじゃん。

前提がおかしい上に結論まで変。多分、規律社会と管理社会の区別が全然ついていないんじゃないかと思うのだが、それを指摘するもの無駄なような気がする。要するに、この人は善意の監視というものを信じていて、それを宣伝したいだけなのだ。やれやれ。


もちろん、だからといって僕も、管理に反対すべきだと言いたいわけではない。管理社会化は必然であって、それを押しとどめることはできない。僕たちは逆に、それを上手く利用する方法を考えるべきなのだ。闇雲な反対、何でもかんでも「個人情報保護」に落としてしまう抗議運動などには意味がない(この点に関してだけ、僕は金森に同意できる)。

どうやるかということに関する妄想はいくつかあるのだけど、それについてはまた今度ということで。

02:33 PM [社会ネタ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

07/15/2005

わたしはクランチ中ですが

いつもながら、大西科学さんの文章にハアハア。今回はスパムのおはなし

そういう可愛いところのあるスパムなのだが、メジャーな手口は、やはり私を口説こうとするものである。差出人である女性は、私と関係を持ちたく思っている。などと書くと妙に生々しいが、私に対する恋心を告白し、あるいはなれなれしく話しかけ、またあるときはドライな関係を誘っている。以前はかなり稚拙なものも多かったのだが、書き手も手馴れてきたのか、ときどき、きらりと光る表現も見受けられる。なんでも継続は力だと思う。

うーん、いや、そうですな。ほかに興味を引かれたところもあるんだけど、それは素性がばれるので省略。

ところで、リンク先から更にリンクされている、「かやの日記」は絶品。千田さんなんかがお好きなネタなのではないかと思うのですが、いかがでしょう?

ところで、タイトルの意味が分からない方は、「コードウェイナー・スミス」「鼠と竜のゲーム」でご検索ください。単なるクスグリですけど。

10:48 AM [社会ネタ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

06/01/2005

固有名と靖国

corp.さんから、靖国神社の話にコメントを頂いた。面白い話だし、訂正のお話も頂いているので、以下に、まず訂正を加えた全文を転載させて頂く。

●固有名詞で考えてみてはどうか?

さて、靖国神社A級戦犯合祀問題で考えてみたんですが、固有名詞で考えてみたらどうなんでしょうか?

つまり、“A級戦犯”が合祀されている靖国神社と考えるではなく、“東条英機(板垣征四郎でも松井石根でもいいけど)”が合祀されている靖国神社に、日本国総理大臣が公務として参拝することを。

そういう風に考えると、戦犯の定義だの、東京裁判、サンフランシスコ条約の問題だのはひとまず括弧に入れることができます。

そもそも、東条英機たち戦争を主導していった人びとを、戦勝国だけが裁いたことが問題であり、また、当時および現在の日本の国民ないし国家が、その責任を自ら追及しなかったことが問題の根源でもあるのだから。

で、そう仕切り直して、問いかけてみるわけです。
小泉首相が、東条英機(の魂とされるもの)に参拝する(頭を下げる)ことの意味を。

と、そのグロテスクさが見えてこないでしょうか?

「戦死やあわれ/兵隊の死ぬるやあわれ」という詩を書いて23歳で「遠い他国でひょんと」死んでしまった竹内浩三は、「小泉俊一郎現日本国首相は、オレが死んでしまう原因をつくった一人である東条英機を讃えるのか?」という声をあげるかも知れません。

●靖国神社と固有名詞

で、そうやって考えてみると、そもそも靖国問題には、固有名詞とカテゴリーの問題が根本にあるように思います。

合祀とは、一人の個人として、様々な思想を持って死んでいった人を、単に、死亡時の立場が天皇側の兵士ないし軍命令で行動しているものであったかどうかによって、一緒くたに祀ることであるわけですから。

各個人をA級戦犯とカテゴリー分けしたのは当時の戦勝国であり、それが不当であると感じる人がいるのと同様に、各個人を天皇に命を捧げた人間と勝手にカテゴリー分けした靖国神社(およびそれに協力した旧厚生省引揚援護局)の行為も不当だと感じる人もいるわけです。

「市造は一足先に天国に参ります。天国に入れてもらえますかしら。お母さん祈って下さい。お母さんが来られるところへ行かなくてはたまらないですから」と手紙に書いて1945年4月12日に24歳で沖縄沖にて特攻隊員として死んだ林市造は、靖国神社に祀られてしまって母親に会えなくなってしまうことは「たまらない」と感じなかったでしょうか。

●戦争・カテゴリー・固有名詞

で、さらに考えてみると、戦争というものは、多くの人びとの固有名詞を失わせていってしまうものではないか、とも言えます。

「無名戦士」という言葉が、その象徴的な表現ですね。

もちろん、本当は色々な責任の軽重があって、それをうやむやにしてしまうことは厳に戒めるべきことなのですが、近代戦争において国家が国民を総動員するという形をとる場合、多くの人びとは無名化され、固有名詞を失わさせてしまうこととなります。

例えば、一目惚れした同い年のベルナと結婚して4ヶ月、一緒に過ごした時間は3週間であり、秋に生まれる我が子を見ないままに24歳でミッドウェイにて死んだヘンリー・ラッセル・ケニヨンを日本のパイロット──もしかしたら、2週間の新婚生活をおくったのみで26歳で死んだ三上良孝であったかも知れない──が殺戮できたのも、「敵」という普通名詞で見てしまったからだという面があるように思います。

要するに、国家と個人という問題になってしまうんですが。


全体として、非常に面白い話だ。有効な「舞台返し」になっていると思う。
ただ、靖国神社の問題を「固有名とカテゴリー」の方に持っていけるかというと、僕としてはちょっと疑問がある。理由は二つ、1に、固有名化は「戦争の人格化」につながり、靖国的なものをむしろ強化するのではないか。2に、脱カテゴリー化は実は靖国神社そのものの願いなのではないか。いずれも、固有名の剰余性に関係がある。

柄谷行人がしばしば指摘するように、固有名の本質はその剰余にある。代名詞による言い換えの試みをすべて逃れて残る「そのもの性」こそが固有名なのだ。だからこそ、固有名化することで「英霊」は、ひとしなみな戦死者ではなく、「戦争に反対していた人」「幸せな結婚生活を送っていた人」へと分解されるだろう、とcorp.さんは論じられるわけだ。このことについて異論はない。
だが、僕はこのことは全く逆にも作用しうるだろうと思う。つまり、彼らは「個人的な疑問を押し殺して同胞に命をささげた人」「妻を案じながら、子供の行く末を守ることに命を賭けた人」でもありうる。原理的にそれを阻止する術はない(*)。こうして人格化された戦争に反対することは、単に戦争に反対することよりもはるかに困難だろう。

そして、更に言うならば、靖国神社自身も脱カテゴリー化されたいのではないか。靖国神社の固有名化、言い換えれば「国に殉ずることを人間の自然な属性のひとつにすること」は、靖国神社とその淵源である国家神道の大きな目的の一つだった。彼らは、風景の一部になりたいと思っているはずだ。

僕は、だから、固有名の問題を持ち出すことは答えではないと考えている。固有名や個別性の思考は、90年代をへて共同体論に回収されてしまった。僕たちはむしろ、カテゴリーの世界で勝負すべきだ。戦争や、敵対的な外交関係がいかに個々人の利益に結びつかないかを、明らかにしていかなければならないと、今はそう思っている。

(*)唯一ありえるのは、固有名(個別性)の問題を徹底化することだ。「死んだ後で何が起こったって関係ないじゃん」という姿勢。だが、これを徹底し、大衆化することには困難がともなうだろう。

08:39 PM [社会ネタ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

教育とパイプライン

いつも結論が出ない香港フェニックステレビの時事弁論会。
今回のテーマは、「公立学校の教師が家庭教師をするのを禁止すべきかどうか」

びっくりするのは、話題が「兼業は本業の質を低下させないか」対「(家庭教師を必要とするような)教育需要をどうまかなうか」という点に収束すること。
日本でなら真っ先に出てきそうな(家庭教師先の生徒の成績を不当に上げようとする圧力が生じることで)「選抜が不公平になる」という主張をする人は、メールを送ってくる視聴者を含めて一人もいない。

「教育は実力をつけるもの」と理解されていて、日本や欧米のように“就職につながるパイプライン”という見方はないみたいだ。本当に実力主義なのか、単に気づいていないだけなのか、はたまた混乱期だからなのか、ちょっと興味を引かれる。

06:09 PM [映画・テレビ, 社会ネタ, 経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

04/26/2005

面目躍如:脱線事故救援

昨日のJR福知山線脱線事故にもし明るい面があったとすれば、それは救援がかなりうまく行ったらしいことだろう。震災の教訓が生かされたか、ヘリや救急車が素早く、効率よく使われ、病院への移送素早くできたようだ。

もうひとつちょっと明るい気分になったのは近所から駆けつけた人たちの活躍。レスキューがやってくる前に、近くの青果市場や企業の人が駆けつけて被災者を救助し、車で病院に送り届けたということだ。
これはカズが気づいたのだけど、事故直後の写真を見ると、近所の人たちが青いマットのようなものをベッドや担架の代わりに使ってる。これ、列車のシートだ

「非常時や、使えるモンは何でも使こたれ」ということで列車から持ち出してきたのに違いない。こういう柔軟かつ適切な対応、最高。大阪人の面目躍如である。

02:51 PM [ニュース, 社会ネタ] | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック

04/05/2005

「格差社会」について

 再放送をみた。不毛な議論である。問題が不毛なのではなく、議論の設定が不毛なのだ。

 この種の議論は、平等主義と実力主義の対立という形に作られる。弱肉強食の世界を望む人も、安定停滞の社会を望む人もいないから、結論はいつも出ない。そういうのはしかし、空しいのではないかと僕は思う。もっというと、この問題では左翼の退廃が著しい。「フリーターは企業に搾取されていてウンヌン」「完全雇用が望ましく企業経営者の良心がカンヌン」やれやれだ。あの輝かしい科学的社会主義はどこへ行ってしまったのか。高度資本主義社会では、イデオロギーが全てを決定するとでも言うのか。

 たとえば、フリーターの増加について。「企業が正社員を雇わない」のではなく、「企業が正社員を雇えない」のだと考えてみてはどうか。

 「科学的」とか何とか言っておいてデータが何もないのは心苦しいかぎりなのだが、企業には(それがどんな大企業であっても)、必要な労働力を正規雇用でまかなうのが不可能になっているのではないかと思う。一部の幹部社員を除けば、高い人事コストがペイしない体質になっている、だから彼らは正社員を減らしてフリーターを雇用しようとする。だとすればそれは、良心の問題ではない。企業という生産制度が限界に直面しているという単純な科学的事実である。問題は、それをどう評価するかということだけだ。

 我々の社会が企業の存在を受け容れているのは、それが社会のメンバーを養うための効率的な手段だからだ。もちろん、企業の側には別な言い分があるだろうけど、社会全体の構想を考えると究極的にはそうなる。
 このとき、企業がフリーターなしではやっていけず、かつフリーターの生活や将来を支えるだけの賃金を支払えていない、とする。これは何を意味するか。答えは簡単。企業は我々の社会のニーズに応えられない、ということだ。そんなものは要らない。これが評価である。

 僕は、総フリーター化社会というのが答えなのだと思う。左翼はこれを主張すべきだ。フリーター化という言葉が嫌なのなら、個人単位化と言い換えてもいい。全ての生産が個人単位で行われる社会。ある人は企画を売り、ある人は技術を売り、ある人は生産施設(の利用時間)を売り、ある人は流通手段を売り、ある人は資本を売る。そしてその関係は常に流動的、そういう社会である。我々はそれが実現できるだけのテクノロジーを持ちつつあると思う。かつては膨大な組織的労働力でなければできなかったことが、個人でできるようになりつつある。
 左翼にとって、この社会のメリットは明らかだろう。中間的搾取機構が廃止されることになるからだ。もちろん、だから搾取がなくなるというを言っているのではない。そんなことはありえない。ただ、これによってこれまで「会社の存続と利益」という言葉(お望みなら、それを独占資本主義体制と言い換えても少しも構わない)に覆い隠されていたことがいっぺんに明らかになるだろうと思うのだ。誰が誰に金を払っているのか、働きよりも多く(あるいは少なく)評価されているのは誰か。そういうことが明るみにさらされて初めて、我々の社会は次のステップ(それを社会主義と呼びたいかどうかは別にして)に進む準備ができるのだと思う。今まで、左翼は企業の論理と文化の前に敗北を重ねてきた。それが消滅するのは歓迎すべきことなのではないか。
 ついでにいうと、経済的自由を唱える人にも、これは良いことになると思う。この人たちは、他人の成果を横取りしたいのではなくて、自分の実力を発揮したいだけ(のはず)だからだ。「社員をこき使って成功した」といわれるよりも、「斬新な企画で儲けた」と言われるほうが気分が良かろう。

 もちろん、いくつかの問題はある。我々の社会は基本的に企業の存在を前提にしているからだ。たとえば社会保障制度にしてもそうで、企業年金がなくなったら高齢者の所得がどうなるか想像もつかない。それから、格差に対する特効薬にはならないという問題もある。でも、少なくともこのように考えることは、変化を肯定的に捉えるというメリットがあると思うのだ。変わることを否定する社会はつまらない。僕たちは社会がすこしづつでも良くなると考えたいし、また、そうなるようにすべきだろう。

01:53 PM [社会ネタ, 経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

03/30/2005

卒業式の国歌

そういえばクローズアップ現代をわざと見なかったなあ、と思いつつだちょうさんの記事を読む。

何故あの番組を見なかったかというと、この問題には関わりたくないから。僕はあの歌と旗が好きじゃないし、人に何かを押し付けることも嫌いだ(*1)。でも、都立高校で教師をしている人たち(と、生徒をしている人たち)に同情する気にはなれない。
そもそも、高校(およびそれ以前に行く学校)ってのは、強制と拘束の場なのではないかと思うのだ。生徒に無理やり何かをさせる場所だ。違う方法もありえるが、今のところはそういう教育システムになっていて、これはある程度仕方がない。

そういう場所にすき好んで入って行っている教師の人たちに、今さら「思想・信条の自由」とか言われても困る。彼らだって、授業中に「静かにしろ」くらいは、絶対に言っているはずだ。そういう意味では、「授業を受けるのも強制、国歌を歌うのも強制」という教育委員会の姿勢のほうが、首尾一貫はしてるw。

僕は、刑務官とか清掃局職員の人を尊敬するように学校教員の人を尊敬するけど、だからといって、その仕事に何か特に素晴らしい要素が含まれているとは思わない。というか、むしろあれは「汚れ仕事」なのだと思う。そこに、もうひとつ「汚れ」が加わったとして、それがすごい問題なのだろうか。強制することと強制されることは高校の本質だ。それが嫌なら、教師になんかならないほうが良い(というか、普通、自分が高校に通っているときにそう思わないかね)。

生徒のみなさんは、どっぷりと強制されるしかないだろう。不愉快ではあろうが、高校ってのはそういう場所なのだ。

(*1)こういうことを書くと、「あなたは日本が嫌いなのか」という質問をしてくる人がほぼ必ずいる。なので、あらかじめ答えておくけど、好きだといえる自信はまったくない。どっちかといえば嫌いなのだと思う。すると、「じゃあ出て行け」という話になる。オッケー。あなたがそういうなら断る理由はない。そのかわり、僕が小さい頃から身につけてきた言語が通じて、四季と温和な自然があり、侘びさびを中心にした文化とガンバが本拠地を置く都市を持つ、自由で平等な国家を用意してくれ。そしたら、喜んで出て行く。

12:21 PM [社会ネタ] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

03/15/2005

寄付か税金か:NHKの受信料

ルビーな日常さんの記事を読んでいて、前に書いた受信料の話がちょっと整理できてきた。

要するに、国及びNHKにとって受信料は「テレビという贅沢品にかかる付加価値税」なのだ。そういう贅沢なモンを買う余裕があるんだったら、放送文化の発展のために何がしかを寄付しなさいよと、そういう話である。
嫌ならテレビなんか持つな。テレビがない奴は街頭テレビとかでニュースをフォローしろ、とまあ、そんな感じの発想になっているのではないかと想像される。

他方、テレビを見ている我々の感覚では、受信料は包括型のPPVだ。コマーシャルを見ないために受信料を払っているわけで、NHKを見ないのなら払う必要はないとなる。

この二つのどちらが現実にフィットしているかといえば、もちろん後のほうである。

例えばブロードバンドなどの場合と比較すると分かりやすい。我々は現にサービスを供給しているプロバイダー(とADSLの場合はケーブルを所有しているNTT)に金を払う。サービスに対価を出しているのであって、LANコネクタ付のパソコンを買うたびに、プロバイダ育成料を別に払ったりはしない。

あるいはもう一つ別の譬えを出すと、自動車重量税である。これは自動車保有者に対してだけ掛けられる税金で、主に道路建設に使われる。その意味では受信料に発想が似ているのだが、NHKと決定的に違うのは他局がないことだ。道路がなければ自動車は使えない。しかし、テレビにはNHK以外にも何局も放送局があるのだ。

以上、冷静に考えると、どう発想しても受信料には無理があるといえるだろう。ここまでは、議論がごくシンプルだ。問題は、では公共放送をどうするのかということである。

ひとつに、廃止という考え方がありえる。市場原理にゆだねるという意味では、完全PPV化も同じことだ。メディアとしてはそれで問題がないのだと思う。新聞は全部民営だけど、それで問題が生じたというような話も聞かない。
とはいえ、芸術として考えた場合には、舞台でも絵画でも完全に民営でやっているところのほうが少ないのだから、補助は必要だろうという気がする(売れる絵が良い絵なのかという問題。何もかもがラッセンになっても困る)。

そしてもちろん、全てを国民がコントロールしてしまうと実にツマラナイ物ができるだろうという問題もある。全部投票で決めててご覧なさい。今頃、宮崎駿は「トトロ3」と「ラピュタ4」を作ってるから(というか、そもそも「コナン」が打ち切りになった時点で世に出てない)。これは基本的に完全民営化の場合と同じ問題だから、どこかで審議会見たいものをかませないといけないという話になる。とはいえ、それで国民の理解は得られるのか。

というわけで、このあたりをマッチングさせるのは実に難しそうだ。BBCやPBSは、どうやって運営されているんだろう?

03:05 PM [文化・芸術, 社会ネタ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

02/06/2005

「フリーター漂流」

僕も見た。悲惨である(詳しい内容はmuseさんのとこで)。

ただ、時給900円で月22,3日…と考えると、時に僕の収入もそれぐらいだったりするw。
彼らと違うのは、時にそれ以上の収入があることと、週15時間くらいしか働かなくて良いこと、長期の有給休暇があることだな。

そう考えると恵まれている。贅沢は言っちゃイカンと思った。

09:23 PM [社会ネタ] | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック

01/06/2005

殺さない、ということ(匿名のコメントへのレス)

ミーガン法関連の記事にコメントを頂いた。

色々読んでみましたが、どうしても「ミーガン法が何故いけないか」という重要なところが理解できませんでした。

元犯罪者でも刑期を終えればコミュニティは無条件で受け入れなければならない理由が、素人の私には納得できませんでした。

という部分が印象的だった。
これはかなり重要な(しかし、正面切っては議論しにくい)論点だと思うので、僕なりに考えてみることにする。

コメントにも書かれているとおり、ミーガン法支持の立場をある方向に延長していくと、「加害者を殺してしまえ」という主張にいきつく(ミーガン法がそういう趣旨だと言っているわけではない、念のため)。ここにはハムラビ法典的な応報主義の視点が含まれているはずだが、一応そのことは置こう。すると、残るのは「そういう人と一緒に暮らすのは嫌だ」という主張である。

逆に言うと「共存しない」と決めた時点で、殺すしかなくなってくるわけだ(終身刑や流刑も、「自然死刑」にほかならない)。この議論を更に裏返すと、前の記事での論点になる。つまり、殺さないのなら共存するしかない(共存するにはミーガン法が邪魔になる)。

では、なぜ犯罪者を殺してはいけないのか。

一般に、死刑に反対する論点は二つくらいある。

その第一は、誤審の可能性。「まちがいだったらどうするんだ」という主張である。殺してしまったら取り返しがつかないのだから、この主張は重要だ。
もっとも、その分審理を慎重にやればいいような気がしないでもない。
別様に考えれば、誤審によって犯罪者が無罪放免されてしまうケースもあるはずで、その結果殺人事件がおこったらどうするんだ、というようなこともあるかもしれない。だから、この主張はあまり有効ではない(なお、ここでは「無知のベール」には触れない)。

第二の論点は、無効性。「死刑は犯罪を減らさない」という。犯罪者が「これをやると死刑になるかもしれない」と考えて犯行をためらうということは、確かにありそうにない。
ただし、死刑の抑止効果については、説得力のある資料はない(実験をするわけにはいかないのだから当然だ)。「抑止効果はあるともないともいえない」というのが本当のところだと思う。だから、この点で議論をするわけにもいかない。

では、なぜ死刑ではなくて共存を選ぶのかというと、「殺してはいけないと考えるから」。これにつきる。
我々は、「人は殺されてはならない」というルールを、無条件に受け入れている(だからこそ殺人事件に憤れるのだし、ジェノサイドに反対できるのだ)。死刑のときだけそのルールが緩和されるのはおかしい。
死刑は(それによって被害が回復するわけではないのだから)、「殺人をもうひとつ増やす」という行為に他ならないと僕は思う。一つの殺人に反対するのなら、もう一つの殺人にも反対すべきだ。そして、死刑を選ばないのなら、犯罪者の更正と再統合を考えていくしかない。

いうまでもなく、これはかなり不自然な議論だ。「あんな奴は殺されて当然だ」という議論の自然なわかりやすさには、多分勝てないだろう。だが、この不自然さは僕たちに必要なものなのだ。
他者をその資質にかかわらず尊重する(最低限、殺さない)、という原則なしには、僕たちはやっていけない。
感情を吐き出した後にで、それをチャラにすることが大事なのだと思う。「ま、それはそれとして」ということで。

【追伸】
メディアを通じての憎悪については前に書いたやつを見ていただけるとありがたいです。

08:29 PM [社会ネタ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

01/04/2005

ミーガン法関連(兼:たえぴょん様へのレス)

ミーガン法とは、

米国ニュージャージー州で1994年に成立した法律で、性犯罪の犯人を釈放後も登録して追跡しなさい、地域に「こんな危険な奴がいるぞ」って教えなさい、という内容。ミーガンというのは虐待されて殺された5歳の女の子の名前。加害者は近所の住民で、事件が起きるまでは過去に性虐待で逮捕された経歴のある人だとは周囲の誰も知らなかった。その後連邦レベルでも96年に同じような内容の法律が成立しています。

(macska dot orgさんの記事より)。

Dead letter さんの記事で、この日本版に関する議論が盛んになっていることを初めて知った(例によって遅い)。

この法律に関していうと、ひとことでいってナンセンス。この記事でもわかるように、性犯罪の再犯率は特に高いというわけではないし、ミーガン法にも再犯を抑止する効果はない
これは要するに(社会学をやった人なら誰でも知っている)「逸脱者を社会の外部に追放したい」という衝動の表れにすぎないのだ。

では、現実に犯罪を抑止する試みのほうはどうか。これに関して、前に書いた記事にコメントをもらったりもしたので、もう少し考えてみる。

ここでも頼りになるのは、macska dot orgさんの記事
それによると、フェティッシュをコントロールするための試み(心理的条件づけ、去勢)が、犯罪を顕著に抑止するとはいえないようだ(去勢に関しては抑止しないともいえないようだが)。効果がありそうなのは、妄想と現実を区別する「現実感覚」を強化するプログラムだ。もちろん、これも万能ではないし、そもそも初犯にはどうやって対処するのかという問題が残る。

というよりも、「ある一定程度は起こる」と考えざるを得ないというのが本当のところだとおもう。それをわかった上で、危険性を最小限に持っていく、というのがせいぜいのところだろう。

僕が考えているのは、地域で危険な場所の情報を共有していくということだ。できるだけオープンな形がのぞましい。性犯罪の前歴や傾向のある人が見ても構わないと思う。とういか、むしろそういう人たちが犯罪から身を遠ざけておくことの一助になれば素晴らしいのではないかとおもう。

【追記】
その1。共存という課題について。
その2。メディアに出てくる再犯率のまちがいについて

06:38 PM [社会ネタ] | 固定リンク | コメント (22) | トラックバック

03/17/2004

文春は回収すべき

週刊文春が発行差し止めを事実上無視。これは問題だとおもう。

ていうか、ゲリラ出版てのは超緊急事態(警察が会社に押しかけてくるとか)のための最後の手段でしょ。こういうところで無駄使いしないで、普段は行儀良くしておいたほうがいいと思うんだけどなあ(ま、文春が国家権力に対抗する日が来るとは思わないけどさ)。

12:30 PM [社会ネタ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

03/12/2004

夫婦別姓また遠のく

法案提出が絶望的に
やれやれ。ていうか、単に結婚しない人が増えるだけだってのがわからないのかね。
我々も当分、法律婚は見送りかな。

12:42 PM [社会ネタ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

02/11/2004

海外で活躍することについて

この言葉は重いかもしれない。「本当は悲しいこと」というタイトルのコラム(アサヒ・コム)より。

私たちの意識の中で知らない間に、世界は、日本人が活躍し同時にその活躍を自分のことのように感じることのできる「舞台」を提供するだけのものになってしまった。

04:13 PM [社会ネタ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

02/09/2004

雪山遭難者無事救出

ヘリで全員助け出される。よかった。
冬山を全面立ち入り禁止にしてしまえばこの種の事故はなくなるわけだけど、それもどうかと思う。ていうか、何かというと禁止の好きな政府がそういうことを言い出さないところを見ると、登山にもそれなりの意味が認められてるのだろう。この辺は調べてみても面白いかも。

ところで、徒歩で現場に向かっていた人たちはどうなっちゃったんだろう?

05:27 PM [社会ネタ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

02/04/2004

着床前診断

産み分けのための受精卵診断が行われていた。
非常に良くないことだと思う。ただ、良くないのは(テレビなんかで言ってるんだけど)、「生命を持っている受精卵を殺してしまう」からではない。この点に関しては「妊娠後の中絶は良いのに、なんで直径0.数ミリの受精卵を“流して”はいけないんだ」という問題の医師の言い方に分がある。
僕は、着床前診断は×で、妊娠後の中絶は○だと思う(その理由が性別選択であったとしても)。

1.着床前診断が良くないと思う理由
着床前診断はあきらかに、「生まれてくる子供の属性をコントロールする」行為である。こうした行為は、出生後の親子関係に悪影響を与えるし、子供のアイデンティティにも問題がある。
2.中絶は良いと思う理由
中絶は(命ではないにしても)「あるもの」を絶つ行為で、ある程度の痛みを伴う。産み分けがいけないとは思わないが、やるのならその程度の痛みを覚悟すべき。

しかし、こういうことが起こってしまう以上、自主規制では限界があるのかもしれない。立法を検討すべきかも。

10:34 PM [社会ネタ] | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

01/17/2004

ジェンダーバイアス

とはいえ、あさが前に英検バイトでいった某私立女子高も相当汚かったです。

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12/08/2003

空港職員が殴られる

手荷物検査係の人が殴られる事件が頻発しているらしい(いや、この頻度が高いのかどうかはわからないが)。
多いに同情。とはいえ、殴りたくなる気持ちはわからないでもない。僕は平均して一月に一回くらい飛行機に乗るんだけど、検査係のひとはいつも今一つ愛想がない。どことなく嫌そうに仕事をしているように見えるし、ちゃんと仕事をしてはいるんだけど、接客より仲間同士のお喋りに熱が入っているように見える時もある。全体に若い人が多いし、何となく警察官のように見える制服と、どことなく法執行官のような感じの権威を身に纏っていることも、虫の居所が悪い人には癇に障るだろう。
もうちょっとフレンドリーかつプロフェッショナルな態度でやってもらえると、お互いに幸せになれると思うんだけど。

(それとも、無人化するか。無人でもやれそうな気はするな)

11:06 AM [社会ネタ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

12/06/2003

東京都の緊急提言

なにがどう緊急なのかはよくわからないのだが(昨日や今日始まったことではあるまい)、東京都が「緊急提言〜子どもを犯罪に巻き込まないための方策」を出した。
「巻き込まない」といってる割には中身は少年犯罪対策だとか、相変わらず現実と仮想の区別が全然ついてない、とかツッコミ所は満載(この辺はTB先でも指摘済)。ただ、TB先のいう、「家族へのプレッシャー」がプンプンするかというと、それはちょっと違うかも。1-(3)はどっちかというと真っ当な虐待対策を書いていて、ちゃんとした「巻き込まないための方策」になっていると思う(そのため、全体からは浮いている。前文で犯罪とかと結びつけようとして頑張ってるけど)。家族へのプレッシャーはあると思うけど、この提言では正面きって言われてない。

むしろ気になるのは、全体としてすごく統制的で、強制力に頼りきっているところ。「子どもを家に閉じ込めろ。違反する奴はブチ込んで反省させろ」というジョン・ウェイン方式。こういうのはむしろ非行層を固定化してしまう傾向があることは過去の経験からはっきりしていると思うのだが、社会的逸脱の専門家は参加していないのだろうか。どうも発想が素人くさい。精神科医がどうこうと言っているところは、『心臓を貫かれて』の少年院みたいで不気味だし、ボランティア(というか「奉仕」)を持ち出せば万事解決と思っているあたりも頭が痛い。極めつけは「居場所としての児童館」。ははあ、コンビニにたむろしてる少年をここに誘導するわけですな、ってあんた「ウエストサイドストーリー」のダンスパーティーかい!

「最近の若い者は善悪の区別がつかない」という(これまた素人っぽい)発想が全体を貫いているのだけど、それは多分違う。彼らは社会的な善悪の基準を理解していて、なおかつそれを受け入れるのを拒否しているのだ。そこには、彼らなりの理由があるはずで、「緊急」とかいう前にまずそのことを理解しないとダメだと思う。そのうえで彼らを攻撃するのか、受け入れるのかの決定をすべきなのだ。

03:25 AM [社会ネタ] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック